2199について聞いてみた

今日、2199を見たという友人と話をした。妙に盛り上がった。

私は、2199をあまり見ていないことは以前にも書いたとおり。全体の1/3程度の話数しか見ていないと思う。どうも、真顔でみていられないのである。全体を見渡さず、枝葉末節ばかりに目がいき、変なところを作り込んでいるような気がしてならないのだ。

ヤフオクの便利な機能に「アラート」というものがある。『宇宙戦艦ヤマト』というキーワードを設定しておくと、キーワードを含んだ商品が出品されると提示にまとめてリスト化して送ってきてくれる。その中に妙な絵はがきのようなものが混ざってくる。いわゆる「萌えキャラ」のようなキャラクターだ。なぜ宇宙戦艦ヤマトに萌えキャラ(死語?)を登場させたかは知らないが、そんなキャラクターをヤマトファンが欲しがっていると思ったのだろうか?まさか、萌えキャラ(死語!)で新規顧客を取り込もうなんて感がえるほどスタッフも浅はかではないと思うが、見るに堪えない。漏れ伝わったところによると某偉大な漫画家でありアニメーターである方も不思議がっていた、というよりお怒りだったと聞く。カラオケ大会を彷彿とさせるOPの全員斉唱は意味がわからない。ひとつの楽曲として主題歌を大切にしていないように思う。

昭和49~50年当時、ヤマトは諸事情で打ち切りが決まり予定話数が減っていったし、宇宙のことだってわからないことがいっぱいだったから、どうしても全体としてみれば不都合な部分があるのは致し方ない。とやかくいうよりも、普通にヤマトをリメイクして欲しかった。多少の味付けはしても、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばした状態にならないようにして欲しかった。スターシャが波動砲を認めないのは意味がわからない。旧作では「自分たちのチカラできてください」と言っていたのは何だったのだろうか。西遊記において、天竺への取経を目指し、苦難を乗り越え結果として受け取ったものには、それなりの意味があった。その過程に問題があったからといって経典を授かれなかったかといえばそうではない。

2199の続編もあると聞く。地球人類は、波動砲エンジンが作れないからアンドロメダなどの新造戦艦は初めから弱小戦艦として登場するということだろうか?映画「さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~」では、ヤマトを凌ぐ新造戦艦アンドロメダが白色彗星と対峙し、敗れ去ってしまうことで敵側のスケールの大きさが表現されていた。2199においてもガトランティス帝国よりガミラスの方が強大であるような描き方をしていたのも気になる。弱い敵を倒しても、それは単なる弱いモノいじめに過ぎない。

もう、あかーん。2199見るしかない。私と一緒に2199をみてくれる人は、(強く)こちらをクリック!

『追憶』 イントロダクション

tittle私が、なぜ西﨑義展氏のことを書こうと決めたかといえば、アニメーションというジャンルの映画の価値を限りなく昇華させた人間として、誰もが知っている表の部分とは別の面を知り得たからに他ならないからだ。

これはプライバシーの暴露ではなく、人間として魅力的に思えた部分が、氏の持つ独特な負のイメージを十分に払拭してくれると確信しているからだ。1999年の6月に氏からの手紙を受け取り、2007年の夏以降2010年の父島まで、朝のお迎えから製作現場、あるいはプライベートな旅行、そして帰宅して就寝するまでを付き添った私でなくてはできないことだと思う。

内容の半分をこのブログに掲載した時点で書籍化することを前提としている。西﨑義展氏はことあるごとに「恥を知れ!」と教誡することがあった。それは育てられてきた品位ある家庭環境に由来する言葉だと思う。数多く聞いた言葉の中から特に印象深い意味を持っていたように思う。

どん底の中で、思ったことだという。「今、自分自身がなにをして、どこに向かっているのか?わからないとは言わせない。恥を知れ!」