ラストシーン

西﨑義展氏が「ヤマトが銀河に静かに消えていく」シーンを思い浮かべて構想に入ったという映画「さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~」のキービジュアルがあります。ポスターやLPのジャケットとしてみなさんにはお馴染みのイラストだと思います。

私の寝室に複製した原画が飾られています。もともとは出版を考えて試験用に出力したものですが、その機会も失い行き場が無くなりましたので、部屋の壁にしまっておくことにしました。このキービジュアルを見ていますと、昭和48年から描かれ続けたひとつの集大成として製作者の想いを感じずにはいられません。

本当に美しい絵です。多くの旧作を愛するファンの方々にお目にかけたかったのですが残念です。

通常、皆さんがご覧になっているのは、(気にされたことはないと思いますが)印刷された媒体ですから、絵が荒く(印刷は小さな編み目の集合体ですから)ザラザラに見えてしまいます。人間の目は、案外詳細な情報まで脳に送っています。ところが原画をみると、当然に印刷の編み目はありませんから、なめらかで、鮮やかに発色していて感動すら覚えます。これは、(ちょっと古い話ですが)VHSの3倍速で見ていた映画をDVDで見た時の驚きに似ています。

 

 

映画「さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~」キービジュアル

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侍と歌謡ショー受賞!

昭和53年12月20日 有楽町にある日本劇場にて「第9回 年忘れ 文化人歌謡大行進」と銘打ったカラオケ大会が開催されました。(第9回というのが妙)そこで西﨑義展氏が歌唱賞を受賞した時に受け取ったのがこの盾です。

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続いて「侍 イン・メキシコ」という壮大な映画の膨大な資料。映画を作るために相当な量の下調べをしていた西﨑義展氏。なにか情報は無いかと探していたら氏の山のようにあるパブ関係の箱から1冊の週刊誌を発見しました。

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1979年には吉田喜重監督、実写映画『侍イン・メキシコ』にプロデューサーとしてメキシコを訪問したようです。スタッフがメキシコ入りしようとした時には、それまで怪しかった軍事情勢がさらに怪しくなり、遂にメキシコ、中南米で政変が起きてしまったようです。

また、大藪春彦原作『汚れた英雄』も頓挫しましたが、その為に撮影された映像も膨大な数にのぼっています。

宇宙戦艦ヤマト 第26話

TV版26話 最終回のエンディングのフィルムです。

ヤマトは、きらめく銀河の中から地球へ無事帰還します。しかし、そのシーンの撮影には一苦労ありました。ヤマトは右から左へ通過する(付けパン)セルしか用意されていなかったので、最終回の最終シーンのためだけに新たにセル画を書き起こすことは出来ませんでした。

そこでヤマトが右から左の通過するシーンを撮影し、フィルムを裏表逆に焼く、いわゆるウラ焼きで左上から右方向へ向かうシーンを作成しました。裏表が逆なので、そのまま地球へ向かうと、地球も左右が逆になって違和感(?)が出てしまいますので、地球も逆にプリントしています。私個人は、この銀河の中を地球に帰ってくるヤマトの姿が大好きだったので、このフィルムを探し当てた時は小躍りしたものです。

こんな製作素材まで保管されていました。mini_140727_2016
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映画版「宇宙戦艦ヤマト」の台本

劇場で初めて公開された「宇宙戦艦ヤマト」の脚本です。いわゆる「スターシャ死亡編」です。ここだけは新規に書き起こしていますが、何度かの改訂を経て、テープでの切り貼りになっています。切り貼りの下が気になりますね。

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大ヒット記念謝恩パーティー

映画「宇宙戦艦ヤマト」は大ヒットしました。

その年の11月に謝恩パーティーが開かれました。豪華絢爛!その当時の様子が余すことなく全て写真に納められていました。厚さ十数センチにも及ぶアルバムに収められた写真から当時の熱い状況が手に取るように伝わってきました。その写真は、後ほど許諾の取れた方から掲載していくとして、ひとまずアルバムの表紙と招待状から。

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西﨑義展氏の夢

西﨑義展氏が「プロデユーサ-として名前を載せるのが夢だったんだ」と言って手渡したのがこの『プロデューサー手帳』です。プロデューサーという職業に憧れていたのですね。内容的には、プロデューサーから脚本家、監督など映画製作に携わる方々の住所録と年間スケジュール帳です。確かにプロデューサーとしてこの手帳を手にすれば、あらゆるスタッフとすぐに連絡が取れるという魔法のような一冊です。逆にこの手帳を紛失すると相当な数の個人情報が漏洩してしまうことにもなります。

中央の緑色の手帳がそれです。赤坂に住んでいた頃の住所が記載されています。監督の欄には山本暎一氏の名前もあります。

現在、日本映画テレビプロデューサー協会は、東京都中野区に移転してます。ただ、最近では会員数が減る一方のようで、権威が薄れつつあるのでしょうか。

ある本に書かれていましたが、現在では本当の(身体を張って作品を作る気概のある)プロデューサーは少なくなったそうです。映画のスタッフクレジットをみるとプロデューサーの名前が多いのがその証左だそうです。

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胎動編の2520

胎動編で一部を見ることが出来た「YAMATO2520」の3Dレンダリングです。

第18代YAMATOの映像は3種類ありました。ワイヤーフレーム、ヤマトの定番といわれる「付けパン(右から左へ抜けていくカメラワーク)」、そして火星上空を飛び去るYAMATOです。幸いにして8mmビデオデッキを所有していましたので、PCにキャプチャできました。

時代的には、まだWindows95が登場する前のマックで作られた3D映像ですが、雰囲気は充分です。

いつの日かご覧に入れられるときがくるといいのですが。mini_SN3U0425
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