宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち

宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち
2月6日 読売ホールにて

冒頭、意図不明な余興があって上映が始まった。
宇宙の絵からズォーダー大帝のモノローグが意表を突き、その評価を終えぬ間に白色彗星帝国の侵略が始まり、更に大帝の意外な言葉があり、宇宙戦艦ヤマトⅢを彷彿とさせる戦争へと移った。
(惑星破壊ミサイルを発射していなかったろうか?)
本編映画「さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~」では、いわゆるやられキャラ、引き立たせキャラであった白色彗星帝国の大型戦艦とアンドロメダが、これでもかという程の凄みと不気味さをまとって登場する。
特筆すべきは、大型戦艦の迫力である。あれほど本編では、呆気なく、校庭の隅で干からびていたミミズの死骸程度の役割しかなかったキャラクターでありながら、今作ではあれだけのスケール感を醸し出した監督の手腕に脱帽した。

これは、明らかに監督を交代させたことによる好転反応としかいいようがない。前作2199とでは第1話のオープニングから分が進む、いや秒が進む度に不快感を増し、批判的な思考しか持てなかった時とは大きく違う。
次はどうなるのだろうと、期待を持てるのである。
私は、監督を務めた羽原氏とは、復活編の製作時に初めてあって、少々お話をさせていただいたことがる。本当に少々である。

復活編で羽原氏はコンテも相当な数を描かれている。これが凄かった。残念ながら採用されることは少なかったが私なら全部採用したと思う。
ドラマの組立かたといい、見せ方といい「そうだよね」「こんなふうに表現できるんだ!」と思わず観るものを唸らせる描き方をしているのだ。絵コンテは脚本に次いで映画の肝であるので、このコンテの善し悪しで以後、どうにも修正が効かない駄作にもなりうるし名作にもなるのを現場で体験した。(比較対照があったのでなおさら実感できた)
羽原氏が作ると名作になるのかもしれない。

余談ながら、コンテは読みやすい方がいいのだが、ガンダムで有名な富野氏のコンテは判別が不可能に近いのに対し、羽原氏のコンテは絵が各段にうまかった。メカだけでなく人物も相当うまい。
小林氏が私に「羽原のコンテはキャラもうまいんだよね」と話されたのを今でも鮮明に覚えている。

で、本題に話を戻すと、大戦艦ひとつとってもこの力の入れようであるから、話しが進むとオリジナルの部分と「さらば」の直球勝負の混ぜ込み具合に感心しつつ時間があっという間に進んだ。

正直に感想を書くと、2202は私の予想を遥に超えて面白かった。
羽原氏がやるので、いい意味で普通なのができる(2199での絶望感がひどかったし、周りのスタッフのよくないしがらみもあるので)と思ってはいたけど、それどころではなかった。
予想をいい意味で裏切り続けた。
そして、絶対に書かなくてはならないことの一つに、今回の作品に、第1作目を見たときのような『ヤマトらしさ』を感じることができた、ことがある。グレートヤマトでも2199でも表現しきれなかった This is YAMATO である。
これは、羽原監督の技量と熱意によるものだと思う。
私たちが70年代から80年代の初頭に熱狂した、あのヤマトの熱量をそのままに2017年に対応した映像として作り直して(RE-Make)くれたのだ。

ただし、苦言のひとつもある。
2199を見なかった人間は、なぜ波動砲がだめなのか、見知らぬキャラクターがいたり、ガミラス人が同居したり(絶妙な台詞による説明はあったが)していたので意味不明な個所があった。
まぁ、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~」も第1作目を見ないとわからない映画だったので、2199を見なさいということだと思うのだが、それは拷問に近い。何度かtryしたのだが「ちょっと無理」

当初、どーせ2199の延長線だしと思って、見に行く気は120%なかったのだが、親愛なるN氏が私の分のチケットを購入しておいてくれたので、やむなく足を運んだ次第。いつも、心遣いに感謝。

上映前、席について周囲を見回すと音響監督の田代敦己氏が見えたような気がした。それをN氏に話すと笑っていたが、上映が始まって少ししてその理由がわかった。
読売ホールは音響が良くないのである。
中高音しか響かないのである。
音響的には最悪な環境で上映することを心配しての下調べにきていたのではないかなと考えると納得がいった。
復活編の時もBGMが心配だったようで私に何度か電話してきていたのを思い出した。いろいろと状況を説明し、半分くらい納得してくださって「大丈夫かい?西崎さんは?また電話するよ」が最後の会話となったが、田代氏もヤマトを語る上で重要な役割を担った立役者である。いつも遠くから見ている事と思う。

次回は、映像と音楽について書く予定。
予備知識がないのでピュアな目で見られた、聞けた。